無意味のような生き方

組込みエンジニアが怒りと無念をさえずるブログ。

40年たって彼らはまた何故ここに...

週3でバーミヤンに通っている。
夕方のバーミヤンでは、60代のおじさんとおばさんが一緒にいるのをよく目にする。
夫婦ではなく、ごく最近知り合った友人といった雰囲気。
どこで知り合ったのだろうか。

 

先日も、それっぽい状況の2人が、メニューを見ながら以下のような会話をしていた。

 

男「普段からお酒飲む?」

女「けっこう飲むよー」
男「あー飲みそう(笑)」
女「○○さんは?」
男「俺めちゃくちゃ飲む(笑)」

 

男と女は共に推定60歳である。

こんな日本の酒場で1日1万回なされている会話を、還暦を過ぎたおじさんとおばさんがやっているのだと思うと辛い。「いい年して格好わるい」というのもあるが、それよりも、大学2年生の春にする会話パターンを60越えてまだやらなくちゃならんのかと思う。20歳になった時、成人しても驚くほど変わっていない自分を目の当たりにした。60になっても案外変わらないのだろうか?長く生きても、円熟することも経験値が積もり重なることもなくて、世界に何ひとつ影響を与えない会話をし続けて終わっていくだけなのか、と思うと苦しい。

 

そして、このおじさんがきっとマシな方なのも苦しみに拍車をかける。想像でしかないが、バーミヤンで同世代の女性と酒&おしゃべりを楽しむのは、(独身)おじさんの中ではけっこうエリートの方なんじゃないだろうか。一人で来て紹興酒を頼み、何をするわけでもなく料理が来るのをボーっと待ち、来たらがむしゃらに食って帰るだけのおじさんをよく見かける。僕はこっちのコースに順調に向かっているけれど、最初のおじさんにも全く憧れない。かといって、いつもの仲間(嫁含む)といつもの会話をループしているのも嫌だ。要するにこれは、目指したい老後がない問題。  

 

 

10年たって彼らはまた何故ここにいるのか…―why

10年たって彼らはまた何故ここにいるのか…―why

 

 

『白と黒のとびら』 第9章 「不毛な論争」まとめ ①

白と黒のとびら』(川添愛、東京大学出版会)を読んでいる。

前半の山場である9章「不毛な論争」の内容が、一度読んだだけでは頭に入ってこなかったので、ここにまとめておく。

 

証明
①『規則』で表せる文はすべて『装置』で表すことができる。
②『装置』で表せる文はすべて『規則』で表すことができる。

 

「装置」の定義(p.174)
・白と黒の扉のついたいくつかの部屋からなる遺跡であること。
・一定の条件に従って、筒の中身が変化すること。
・どの部屋でどの扉を選ぶか、また筒の中身がどのような状態にあるかによって、移動先の部屋が決まること。
・筒の中身は、後から入れたものほど先に出され、先に入れられたものは後から出されること。

 

「規則」の定義(p.174)
・「→」の左側に「いずれ何らかの文字列に置き換えられる記号」を一つだけもつものがあること。
・「→」の右側に、文字列か、「いずれ何らかの文字列に置き換えられる記号」か、あるいはその両方をもつものがあること。

 

予備知識
第一古代クフ語(一つ以上の○の後に、同じ数の●が連続する文字列のみを文とみなす言語(p.78)。この言語の文の例:○●、○○○●●●、○○○○○○●●●●●●。)
以下で、この言語のあらゆる文が、規則と装置のいずれによっても表現できることを示す。

 

f:id:ikenohotorino:20161124083351p:plain★(1)と(2)の規則によって、第一古代クフ語のあらゆる文は表現可能。

・最初に(2)を使うと○●という第一古代クフ語の最短の文が作れる。
・最初に(1)を使うと、Sが残るため、次に(1)か(2)を使用する必要がある。ここでもし(2)を使うと、○○●●という二番目に短い文が作れる。(1)を使うと、また(1)か(2)を選ぶ地点に戻る。(1)を繰り返すことで文を無限に長くしていけるため、規則(1)(2)で第一古代クフ語のすべての文が表現できる。

 

f:id:ikenohotorino:20161124084422p:plain

 

★この装置によって、第一古代クフ語のあらゆる文は表現可能。

・出口へ行くためには部屋Bに行く必要がある。だが、部屋Bへ行くためには黒い石が必要であるため、少なくとも1回は部屋Aで白い扉を開かなければならない。そこで部屋Aで白い扉を開くと、黒い石が手に入る。ここで黒い扉を開くと部屋Bへ移動し、黒い石は取り去られる。もしここで筒が空ならば、出口に着く。これが最短(文○●)。
・もし、部屋Aで二回以上白い扉を開けると、その分だけ黒い石が溜まる。筒が空でなければ外に出られないため、二回目以降に獲った黒い石は部屋Bの黒い扉を同じ回数だけ開けることで消費される。従って、部屋Aでの二回目以降の白い扉を開けた回数と、部屋Bで黒い扉を開けた回数は一致する。
・部屋Aで白い扉は何度でも開くことができるため、第一古代クフ語のすべての文を表現することができる。

 

ひとまずの結論
・第一古代クフ語に限っていえば、あらゆる文は『規則』でも表現できるし、『装置』でも表現できる。
・証明したいのは、古代クフ語全体について、『規則』で表現できる文は『装置』でも表現できて、その逆も成り立つということ。言い換えれば、『規則』で表現できて『装置』で表現できない文(あるいはその逆)は存在しないことを示す。あと数ステップ必要みたいだ。
・[ひとつ思うこと]第一古代クフ語の文は無限個存在する。『規則』や『装置』は、第一古代クフ語のあらゆる(無限個の)文を表現できると言い切ってよいのだろうか。ある文について対応する『規則』や『装置』は示せる。が、それに尽きると言ってよいのか。もちろん直感的には分かるけども。南無―。続く。

 

 何気に戦闘シーンもあって面白い。

ジャガビー好きとは話が合わない

お題「今日のおやつ」

最近、自分の年齢に引く。なんでこんな奴が25歳なんだ。11時過ぎまで寝て、約束を破りまくり、人と全然喋らず、料理・掃除・洗濯もほとんどしない。大人びた18歳よりは確実に子供だ。平均的な18歳だとどうだろうか。なんとか勝ちたいところ。

自分が想像してた20代中盤と比べて一番驚くのは、未だに「おかし」を食べまくっている事だ。自分の父親がほぼ食べていなかったため、成長したら自然と食べなくなるものだと思っていた。だが実際はガンガン食う。むしろ高校生の頃の方が弟と分け合っていたから量は少なかった気がする。大学生になり、一人暮らしをしたことで、完全にタガが外れた。惰を極めていた大学3年生の頃は、午後5時頃にスーパーに行き、缶ビール2缶、チューハイ1缶、チョコ1片、ポテチ2袋くらい食べていた。チョコは森永のビターチョコレート、ポテチは堅あげポテト のり味オーザック 磯のり塩を好んで買っていた。自転車の籠にこれらを詰め、日が沈む直前の田舎道を走っていたなあとノスタルジー。何もすることがなくて、無意味に遠回りして帰ってたなあ。

現在、最寄りのコンビニがセブンイレブンだ。コンビニお菓子に限っては、ローソンの方がナッツ類が充実していてやや好きだが、他で圧倒的なので非常に助かっている。僕の中でセブンイレブンのお菓子といえば、カリカリコーンだ。最初の出会いは、眼科で目薬が効くまでの時間に車内で食べた時だった。衝撃的な旨さに興奮し無我夢中で食い尽くした。だが、視界がぼやけて商品名を確認していなかったため、その後1年近く食べられなかったという思い出がある。最近デザインがチープになってしまったのが悲しい。(※画像)

今日のおやつ:明治アーモンドチョコ

※光沢がエグい

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ファッション全体論

――われわれはファッション全体として世界と向き合う。インナー、アウター、ジャケット、髪型、靴。それらの総体としてのみ他者と接する――

ファッションに勤しもうというときに困るのは、これらが全体として一つのまとまりをなしていることだ。例えば、僕が突然真っ赤な靴を履くとする。だがこの靴と、普段のグレーのシャツ&黒のチノパンはお洒落的観点からは両立しない。お洒落的観点からみれば、どこか一部を変えてしまうと、他の部分も変えざるをえなくなるのだ。

この問題は装着時だけではない。購入時にも同じような事態が起こる。
たとえば服を買いに行くとき。〇〇を探してるんですという意思表示の後、必ず店員が言ってくるのは、「いつもはこのような感じの服装ですか?」みたいな種類のセリフだ。僕が着ている服を見ながら。やめてくれ。こっちはいつもと違う自分になりたくて来ているんだ。「いや~いつもこんなクソダサい服は着ないんですけどね。今日はたまたまね。もっと明るめな服とか着ますよ、普段は。」と言いたい。だけど無言。そして結局、客観的にオシャレな服なのか、俺が好きだという勘違いのもと薦めたものなのか不明なまま、買ってしまう。髪型もそうだ。服装が大人しいと、初めて行った美容院でも大人しい髪型にされてしまう。

一気に変えることはできないのか。徐々に変化させていくしかないのか
では何から手をつければよいのだろう。

終わり方が分からないので、最後に嫌いなやつを一種類。会社に明るめの茶髪の社員がいたので、茶髪でよいのかと先輩社員に聞いてみた。ある上司の答えは「仕事ができるならいいよ」というものたったが、別な若い社員の答えは「周りがあいつ茶髪にしそうだなって思う奴だったら」というものだった。何じゃそりゃ。こんな考えには絶対にならない。周囲の反応を意識するのはいいけど、それを意識して服装(や身の回りに関すること)を変えたくないぞ。

というか茶髪しそうな人が茶髪にして意味があるのか

意味があるのか???

決まっている

今日は会社の研修だった。詳しくは書けないが、今後の諸々に関わる重要なテストが行われた。テストがあることは数日前から知っていたので、僕は苦手な所を中心に復習して臨んだ。決して限界まで努力したわけではないが、そこそこ自分なりに対策して行ったつもりだった。が、結果はボロボロに敗れた。最初問題を見たときは、できると思った。できる、できると思いながら解き続け、制限時間2時間の半分が過ぎた。そして、ああもう全然ダメだとなったとき、残り時間が20分を切っていた。回答は全体の半分もできていない。答えもすべて間違っているのかもしれない。だけどもう何も思いつかないし、今さら間に合わない。能力も時間も集中力も足りない。ああ、なんというか、ちゃんとやってちゃんと負けたことに、ただただ悲しくなった。

 

最近、授業でよく発言をする。とはいっても、人の話に割り込んだり、ユーモアを交えた発言で場を盛り上げるわけではない。即興で喋ることはできないので、予め用意していったものや、思いついたことを整理し、頭のなかで何度も反復練習したものを口に出す。それなのに全然上手くいかない。声は100%うわずり、自分でも何を言っているのか分からなくなる。ほぼ間違いなく「?」って顔をされ、恥ずかしくて死にたくなる。会話や議論が上達することってあるのだろうか?上達することがないのなら、僕は何のために発言しているのだろう。

 

7日くらい連続でブログを書いている。PVが異様に少ないとかは置いておくとして、自分の文章の下手さに毎度うんざりする。月並みな言葉しか浮かばないくせに、それを絞り出すのに四苦八苦している。流れる水のように滔々と美しい日本語を紡ぐ..のが理想なのだけど、無口が災いしてか、文章が続けられない。今もまた…で誤魔化した。

 

「とにかくやってみろ。」やってみた結果がこれか。ただひたすら下手を見せ続けているだけで、結局何も変わらない。

 

ヒミズみたいに「決まっている」のだろうか。出口が見つからない。

 

 

ヒミズ(1) (ヤングマガジンコミックス)
 

 

可愛くなりたい

アメトーークの『仮面ライダー芸人』を観てなんとなく懐かしくなり、数日かけて『仮面ライダー剣』を全話見直した。当然ながら10年前にリアルタイムで観ていた時と印象が変わった所がいくつもある。特に変わったのは、当時は何となく印象の悪かった睦月(ダメな後輩)が、今見ると一番おいしい立場に思えるところだ。最終回ギリギリまで独り立ちできず、主人公達に迷惑をかけっぱなしな彼は、10歳の目にはイライラしてみえた。だが、15年経ってみると、イライラはすべて可愛げに変換されていた。確実にダメな奴で、人に迷惑はかけまくっているのだが、それも含めて魅力に思えてくる。実際、作中でも「ほっとけない」という理由だけで、アンデッド(敵)が計2体も彼のために自ら犠牲になった。さらに、恋人も迷惑のレベルを遥かに超えた被害(暴力含む)を与えられ続けたにもかかわらず、最後まで彼を見捨てることはなかった。

気づいたら世の中は可愛げの時代になっていた。いや、もしかしたら昔からそうだったのかもしれないが、コロコロコミックに夢中で素通りしていた。最近読んだ本の中で、犬山紙子がモテる男の条件に「間抜け力」を挙げていた。女性が男性を評価するとき、今の主流は「かっこいい」ではなく「かわいい」らしい。男の間抜け姿、たとえば飼い犬に舐められているところとかを見てグッとくる、というのがトレンドのようだ。TVなんかはすごく顕著で、可愛げがない(要するに見下す要素がない)人間はすぐに出なくなる。

「可愛げ」の正体って何なのか。しばしば、間抜けな所とかダメな部分に対して「可愛い」と言われる。よし。ならば僕のダメな部分、特に磨けば光りそうな部分を書き出してみよう。書いたら明日が早いので今日は寝る。

(僕の愛されダメポイント)

・〆切ギリギリにならないと動かない。
・動いても結果的に間に合わなくてあたふたする。
・わざと寝ないで本番に臨むなどのセルフ・ハンディキャッピングをしてしまう。
・30秒以上連続して話ができない。
・趣味が読書とお笑いしかない。
・人の良い部分を素直に褒めることができない。
・寒がり・猫舌・色白・痩せ型。
・宗教の勧誘を断るのが苦手。
・炭酸水とアーモンドが好き。
・鬼片付けられない。

勝ったな。