常識が違う恐怖
鼻が詰まる。大掃除をしてからというもの、一日中家の中でほこりが舞っているので、持ち前の鼻炎の勢いが止まらない。窓を開けるとすぐ前が歩道橋なので、カーテンは年中閉めっぱなしだ。おかげで鼻孔も心も閉じきっている。始業前の会社は静かすぎて、鼻をかむ事ができない。仕方がないので、口呼吸でしのぎつつスマホを見ていると、いつの間にか息をすることを忘れ、窒息しそうになる。「存分に太陽をに吸い込んだバスタオルで思いきり鼻をかむこと」が叶えたい夢トップ10入りするほどには追い詰められている。
常識が違う。「鼻をかむ」ことが、人前で堂々とする行為だとは思われていないのが、非常に辛い。鼻炎持ちは少数派でも何でもないのだが、鼻炎ではない人が常識の基準となっている気がする。
僕が思う鼻炎に関する常識はこんな感じだ
【常識内】
鼻をすする、ティッシュで鼻を拭く、ハンカチで鼻水を抑える、ティッシュで鼻をかむ(音量小)
【常識外】
ティッシュで鼻をかむ(音量大)、ハンカチで鼻をかむ、ティッシュを鼻に詰める
だが、ティッシュを鼻に詰めている人はたまに存在していて、場所に関わらず平然とやっていたりする。僕だってやりたい位なので不潔とは思わないが、「おいおいそれセーフか!?」とそわそわする。「常識を知らない人」という言葉は何なのだろうか。文頭に「私が思う」をつけてほしい。こっちの常識は違う。
女性は男性より嗅覚が優れていると聞いたことがある。やめてくれ。自分で確認しようがないから。ただでさえ自分の匂いは分からないと言われているのに。そうでなくても私は鼻炎であるのに。
ファミレス譚
週に3日はファミレスに行く。大学院生が勉強する場所となると家か図書館か研究室かファミレスくらいしかないが、この内パソコンが使えて、なおかつ快適なネット環境がないという条件をみたすのは、ファミレスだけなのだ。 ファミレスに入るとき必ず聞かれるのは、「何名様ですか?」と「喫煙席ですか、禁煙席ですか?」の2つである。最初の質問には、無言で真ん中の方の指を一本突き立てればいいとして、後の質問にどう答えるかは毎回非常に悩む。タバコは吸わないので、普通なら迷わず禁煙を選ぶところだろうが、様々なファミレスに通い慣れている僕は、禁煙席がいかにうるさく、しかもどれほど混んでいるかを知っている。そのため、たいていは喫煙席を選択するのだが、ごくまれに喫煙席の方が五月蝿くて混んでいるという状況があり、その場合、端的に損をする。あと最近は喫煙席であってもタバコを吸う人の割合が半々だったりするが、たまに席にいる全員がタバコを吸うというガチな喫煙席だという状況がある。この場合も集中はあまりできずに、ただただ肺がんのリスクを高めて帰ることになる。
困ることは他にもある。例えば「ピンポン」を押すタイミング。混雑時は店員さんが忙しいので、なかなか来てくれないことが多い。だが、あれを何度も押すのは恥ずかしい。「僕にかまって!!」と言っているような気がするからだ。そこは余裕のある24歳学生として、一回押したら10分くらいは泰然と待っていたい。その間に店員さんがやって来て「すみません」と謝っても、気にしないどころかむしろ忘れてたくらいの空気を発せれる人でありたい。 とはいえ最も良いのはやはり一回で決めることだ。一回で気付かれないのは、「存在感のなさ」の点ですでにマイナスである。その後でいくら気にしない仕草をしていても、結局負け戦であることに変わりはない。できることなら一発で決めたい。そう思って僕はいつもベストなタイミングで押すようにしている。入ってくる客はいないか、1分以内に誰もピンポンを押していないか、今から押そうとする客はいないか、フリーの店員さんはいるかなど、あらゆる状況を考慮して、ピンポンを押す。
昨日もそうだった。奥のテーブルを確認しに行った店員が、帰ってくる時に僕の近くを通りかかった。ここしかないと思った僕は、全てを賭けてピンポンを押す。「ピーンポーン」の音が鳴って、店員が立ち止まる。しかし、誰が押したかまだわかっていない。まあ、すぐに確認してこっちに来るだろう。だがその時、僕の真横の席にいた数人の客が、「すいません注文なんだけど」と店員にダイレクトに声をかけた。「はいただいま」と僕を無視して注文を聞きに行く店員。その横で固まる僕。店員は僕が押したことを多分気づいてないからよいが、横の人々は確実に知っているはずだ。そう思うと急に恥ずかしくなってくる。メニュー表をじーっと見る作戦でなんとか乗り切る。注文を取り終え、店員はそのまま去っていった。取り残される僕。 その後何分経ったか忘れたが、横の席の人たちがドリンクバーに席を立った時を見計らい、僕は二回目のピンポンを押した。内気らしい最後といえる。
2015.5.27に書いた記事を一部修正したもの
内気が、ただ内気だけが。
内気はなぜ喋らないのか。岡田斗司夫さんがこんなことを言っていた。
「口下手な人を見ていると、頭のなかで話を構築してから話す人が多い。Aでもない、Bでもない、Cでもない、と自問自答してから口に出す。だから時間がかかったり、話が壮大になってまとまらなくなってしまう。対処法は簡単だ。頭に浮かんだことをそのままA、B、Cと全部順番に喋っていけば良い。」
理屈はわかっていても、俺はこの考えにすごく抵抗がある。思いつくままに話すということは、いかに自分がつまらないかをアピールすることだからだ。いい加減な事をベラベラ喋るほど、相手の中の「つまらん奴ゾーン」「センスなしゾーン」に入れられていくような気がする。もちろん話すことが全て面白い必要はない。しかし、10回に10回つまらないのには耐えられない。喋る人間は常にこの確率と戦わねばならない。これに反して、喋らない人間は話が面白くないとは言われない。人間として面白くないと言われるだけだ(神回避)。
つまらない話をするのも嫌だが聞くのも嫌だ。順序は逆か。つまらない話を聞くのが嫌だから、しないように気を遣うあまり何も話せなくなるのか。嵐の松潤がホンマでっかTVに出ていた時、あなたは「話し始めてから考えるタイプ」と言われていて驚く。そんなタイプが存在するのか。やめてくれよ・・。 そもそも面白い面白くないをセンス的なものだと思っていないことに原因があるのかもしれない。よく考えるのだけど、「痛いコピペ」は、書いた人が面白いのか、それとも見つけた人が面白いのか。僕はやっぱり書いた人だと思う。読む人はそれをただ笑っただけであり、先に変なこと(面白いこと)を書いたっていうのがある。それを人によってどう捉えたかってだけの話でしょう。※未 こういう考えだからどんどん無口が深まっていく。
話は変わるが、今の時代、口下手のメリットってあるのだろうか。言葉で伝えたり、言葉で説明するのが苦手な人間に向いていることってあるのだろうか・・・。 あるのかと言いつつ、多分ないだろうなと思っている。内気人間はアピールが下手だし、経験も同年代より少ない。相手に好かれることが難しいので人と関わる仕事は大変だ。 唯一の希望の光っぽく見える芸術分野にしても、飛び抜けた実力があるわけでないのなら、自分の作品を解説しなきゃいけない。説明する必要がある。別に向いてない。あとはスポーツ選手くらいか。でも引退後のことを考えると口は達者に越したことはないだろう。
■対抗策を考えてみた。内気で口下手が、自分がどういう人間かを伝える方法。
・twitterを公開する
内気な性格でも、結局それを見せなくちゃ伝わらない。 会話して距離を縮められない分、twitterで自分を知ってもらう。 ※twitterやってると公言できない場合は、LINEやメルアドと連携させといてこっそり見させれば良い。
・感情をのせる
感情が高まれば、「あー」でも「うー」でも自然と言葉は出る。 また、同じ言葉がでも感情の有無で重みが変わってくるので、つまらない話でも聞き応えをもたせることができる。そのために、普段から感情を高ぶらせておく。
・エロキャラ
エロなら言葉は使わなくてもいい。不埒なら態度で示そうよ。 セクハラをやり続ければ、すぐに内気な人と思われなくなくなるだろう。 この辺りにわずかな可能性を感じている。
僕のおじいちゃんの世代(70~80)や父親の世代(50~60)は男に多弁を期待されてはいなかっただろう。しかし、だんだん求められる時代になっていった。僕(22)の世代が、男は黙ってDNAが残っている最後の世代かもしれない(もはや残ってないかもしれない)。無縁社会から生まれた子は共同体を自ら作ることを覚える。これから無口な男は減っていくだろうか。時代に踏み潰されて死んでいきましょうね。
実はコミュ力の塊みたいなとこある
2013.11.16に書いた記事を一部修正したもの
小林由依=ごまドレ説
ごまドレッシングが大好きという話から始める。僕は子供の頃から野菜全般が苦手で食べられなかったのだが、「ごまドレ」を知って以降、あらゆる野菜が食べられるようになった。むしろ、ごまドレをかけたいがために、自ら野菜を買うことも多い。
ごまドレが出る前も、ドレッシングは山のようにあった。だが、それらのドレッシングを使用しても、僕は野菜を食べることはできなかった。今ならその理由がわかる。ごまドレ以外のドレッシングは所詮、「野菜を好きな人」が作ったものだ(と思う)。元々野菜が好きな人が、より美味しく飽きずに食べることを目的に作っている。だから野菜の味を引き立てるし、野菜の種類によって合うドレッシングは異なる。
それに対し、ごまドレに合う野菜はない。ごまドレは野菜の味を完全に打ち消してしまうので、合うも合わぬもない。口の中に残るのいつまでたってもごまドレであり、野菜はもはや食感しか残らない。どの野菜にかけるかは、ごまドレにとってほとんど問題にならない。かける対象が何であろうが、文字通り自分の味に変えてしまうからだ。つまり、ある意味では、ごまドレはすべての野菜(というか食べ物)に合う。野菜にかけるドレッシングでありながら、実は野菜と関係がないからこそ、野菜が嫌いな人が愛好するのだろう。ごまドレ好きは決して野菜を好きになったわけではない。
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「誰と一緒でもいい」
というのは、欅坂46の小林由依の言葉である。『欅って書けない』という番組のコーナーで、「自分ヒストリー」というものがあり、そこでのやりとりが今も心に染み付いている。小林由依というぼっちキャラ(自分で言ってる)の自己紹介での一幕。
小林 中学生になっても一人が好きなのは変わらなくて、中学3年生の修学旅行のグループ決めのときに、余ったグループに入りました。そのように言うと、なんか寂しい子なんじゃないかなと思われがちなんですけど、余ったグループに入ったりする理由は・・・
澤部 寂しいですね 結局。
土田 起死回生のフリップが出るのかなと思ったら
澤部 結局寂しいですね。
小林 誰かと一緒じゃなきゃやだとか、誰がいるからこのグループは嫌だとかがあんまりなくて。
この言葉が「寂しい」と受け取られるのは、他人に対して興味が薄く、かつ、愛情を受けていないように見えるからだろうか。しかし、小林がフリップを出したタイミングを考えれば、寂しいと思っていないことがわかる。この場合での「誰と一緒でもいい」は、「誰といようが自分は変わらないので、誰と一緒でも関係ない」って事なんじゃないだろうか。
ここ最近、小林由依の人気が上昇していて、「ゆいぽんセンター待望論」まであったのは、この性格と無関係ではないと思う。どんな場所で誰といても関係なく、いつでも同じスタンスだったからこそ、じわじわとリピーターが増えていった印象がある。
「誰と一緒でもいい」ことは、「誰にでも合わせられること」ではない。その時々で出会った相手の良さをうまく引き出す名司会者なのではなく、相手が誰だろうが自分はそのままでいるということ。つまり、小林由依はごまドレなのである。
内気だけが罪
『蚊がいる』(穂村弘)という本の「内気だけが罪」というエッセイが面白かった。
「この中で好みのタイプがヤクザという女性は手を挙げてください。」
まったく手は挙がらない。だが、と私は思う。現実のヤクザには必ず女がいるではないか。大抵は美人で、かつ複数いたりもする。これをどう説明するのか。私には分かる。ヤクザは内気でないからだ。
好みのタイプがヤクザだという人が、仮に全女性の0.001%だとしても、これに人口の半分を掛ければ相当な数になる。そして、ヤクザはヤクザであることを一貫して外部にアピールし続けている。これが重要なのだ。
現実世界の中では、内気だけが致命的なんじゃないか。それ以外のどんな弱点や欠点があっても、本人が怯むことなく一定の活動量を維持できれば、ちゃんと自分の居場所を見つけて機能することができるのだ。(※一部改変)
一部の例外は除いて、どんな性格(=タイプ)の人間にも、その性格が好きな人が存在する。「生真面目な人」を好きな人も存在するし、「ロマンチスト」を好きな人も存在する。それを露出していくことで、その性格が好きな人は自然と集まってくる。そうだとすれば、もはや決定的なモテない条件は、自分の内面を見せない「内気」だけということになる。世の中で罪な(モテない)性格は、唯一内気だけであるという話だ。
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初めてこのエッセイを読んだとき、恋愛や人付き合いに関する色々なことが腑に落ちた。心当たりが多すぎる。「(見た目で判断して)教授の風格あるね~」とか言われていた友人が、別れてすぐ次の彼女を作っていたりするのも、こう考えると合点がいく。彼は実際に猛勉強していた。しかし、「露出」する上で一つポイントがあるような気がする。「性格のわかりやすさ」である。その人の「実際の性格」が、「キャラのイメージ」とピッタリと当てはまっていることが大切なんじゃないか。言うならばシンクロ率。
この仮説だが、東京ダイナマイトのハチミツ次郎が、TVでモテる理由について話しているのを見て確信した。
「中肉中背が好きっていう女子は自分から言ってこないけれど、太っている人が好きっていう女子は自分から言ってくる。僕はそれを逃さないだけ。」
「太っている人」というイメージから必然的に導き出される〈よく食べる〉〈器が大きい〉〈包容力がある〉〈細かいことを気にしない〉という特徴。ハチミツ次郎はすべてこの通りに思える(そう見せているのだけかもしれないが。)「太っている人」が好きで近づいてくる人に対して、実は小食です、実は潔癖、実は短気、と言って、モテるとは思えない。実際の性格がキャラのイメージにある程度一致していることが、結構大事なんじゃないか。
別な事例として、リリーフランキーがモテるのも説明できる。リリーフランキーを知らない人でも、まず一目見て、タイプ「ゆるいおじさん」だと分かる。そして「ゆるいおじさん」から導き出される特徴〈小~大金持ち〉〈ガツガツしていない〉〈服装がオシャレ〉〈人生経験が豊富〉〈大人の世界(隠れ家的バーとか)を知っている〉にリリーフランキーはぴったり当てはまる。まずキャラで引き寄せられて、しかも性格もキャラ通りだとすれば、完全に逃れられない。
わかりやすい演技をしろということではない。意識して一部の動作だけ演じてもすぐにバレる。チャラい人間は歯を磨く時もチャラいのだ。作れば作るほど、どんな性格なのかわかりにくくなって逆にモテなくなると思う。
結論。 モテないのにモテるように振る舞ったり、いわゆるリア充ファッションをしたりするのは、むしろキャラが定まらず逆効果なんじゃないかと思えてきた。それよりむしろ、女性に慣れてませんよー、女性と喋るの緊張するんですよねー(赤面ブルブル)ってなってた方がまだ期待できるんじゃないか。手始めにフェイスブックのプロフィール欄に童貞と書きましょうよ続く。
※2013.10.31に書いた記事を一部修正したもの。
自己紹介
プロフィール まとめ(2017.9.30更新)
【名前】XXX (@danburutobira)
【性別】男
【職業】システムエンジニア(組込み系)
【経歴】幼少から主に九州を転々とする。長崎の小学校、熊本の中学・高校を卒業後、広島の大学に入学。在学中は大学にほとんど通わず、半ひきこもり状態となる。一時期、自分探しのために中国に数ヶ月住むも、見つからずに挫折。滞在中は、違法動画で日本のバラエティを1日7時間見る生活を送る。卒業間際、ベルクソンの本をきっかけに言語について考えはじめ、哲学を本格的にやりたいと思うようになる。その後、半年間のフリーター生活を経て、東京の大学院に入学。2年間の修士課程を終え、今年の4月からIT企業でエンジニアとして働いている。現在は神奈川在住。
【好きなもの(これから好きになるもの含む)】
■哲学
- 情報科学の哲学。(特に、ソフトウェアの存在論、「層」とは何か。)
- 人々はなぜ不一致するのか。同じ情報をもっていても意見が異なるのは何故なのか
■コラム・エッセイ
何でも好き。古今東西のエッセイが読みたい。
■心理学・人類学
- 内気/内向型とは何か。なぜ内気が(生物学的に)存在するのか。これからどうやって生きていけばよいのか。生存戦略。
- 人はどんな時に「納得」するのか?納得はどのようなメカニズムで生じるのか。
■情報科学
- コンピュータはなぜ動くのか?(特に、メモリ、OS)
- アルゴリズム。
■作家
■お笑い芸人
■アニメ
■食べ物
ナッツ類、カレー、皿うどん、フロランタン、くるみパン。
■音楽
尾崎豊
■ゲーム
信長の野望