無意味のような生き方

組込みエンジニアが怒りと無念をさえずるブログ。

概念と規準

サールの『言語行為』の序盤が啓発的だったのでメモ。

クワインの分析性批判への応答。クワインは「緑色のものは凡て延長している」という文が分析的か否か判別不可能であることを理由に、分析性という概念の妥当性を攻撃した。]サールによれば、ある概念が不適切で欠陥があり首尾一貫していないことを、反例を提出することによって示すことはできない。例えば、分析的な文の規準として〈アルファベットの「A」の文字で始まるとき〉というのが提出されたとする。これに対し、そんなのは分析性とは無関係だと主張したり、「A」から始まる分析的でない文を反例として出したりするだろう。だが、その文が反例としての力をもち、「A」から始まるという規準は不適切だとなぜ言えるのか。それは、「分析的」という語の意味を、予め知っていたからに他ならない。一般に、ある概念が理解されていることを前提してはじめて、その概念の適用規準が適切かどうかが判定可能である。

うむー。
最後の部分はどうなんだろう。概念理解をどう捉えるかが大事もしれない。確かに、何かを反例として出すには、最低限の意味では理解してる必要があるだろう。けど、これだとサッカーボール見せられて、「違う」って答えたら、クリケットボールの概念を理解していることにならないか?クリケットボールが〈ボールであること〉と〈サッカーボールでないこと〉しか分かってなくても、否定できちゃうよなあ。

別な例を考える。最近気になっている類似性。上記の議論だと、AとBが似ている/似ていないって判断できるためには、類似性概念を理解している必要があるかも。では、AとBがFであるがゆえに似ているという場合はどうか。Fで説明できるかどうか判定不可能だと言われるとき、何が攻撃されているのか。類似性概念の理解はきっとノープロブレム。問題は、説明できるできないの区別があるかどうかだ。ただ、それは明確な例と明確でない例を出せれば良いのではないか。選言的性質は明らかに果たしてないじゃん。オーケー。

 

言語行為―言語哲学への試論 (双書プロブレーマタ)

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