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無意味のような生き方

哲学専攻の大学院生が怒りと無念をさえずるブログ。

ファッション全体論

エッセイ/思うこと

――われわれはファッション全体として世界と向き合う。インナー、アウター、ジャケット、髪型、靴。それらの総体としてのみ他者と接する――

ファッションに勤しもうというときに困るのは、これらが全体として一つのまとまりをなしていることだ。例えば、僕が突然真っ赤な靴を履くとする。だがこの靴と、普段のグレーのシャツ&黒のチノパンはお洒落的観点からは両立しない。お洒落的観点からみれば、どこか一部を変えてしまうと、他の部分も変えざるをえなくなるのだ。

この問題は装着時だけではない。購入時にも同じような事態が起こる。
たとえば服を買いに行くとき。〇〇を探してるんですという意思表示の後、必ず店員が言ってくるのは、「いつもはこのような感じの服装ですか?」みたいな種類のセリフだ。僕が着ている服を見ながら。やめてくれ。こっちはいつもと違う自分になりたくて来ているんだ。「いや~いつもこんなクソダサい服は着ないんですけどね。今日はたまたまね。もっと明るめな服とか着ますよ、普段は。」と言いたい。だけど無言。そして結局、客観的にオシャレな服なのか、俺が好きだという勘違いのもと薦めたものなのか不明なまま、買ってしまう。髪型もそうだ。服装が大人しいと、初めて行った美容院でも大人しい髪型にされてしまう。

一気に変えることはできないのか。徐々に変化させていくしかないのか
では何から手をつければよいのだろう。

終わり方が分からないので、最後に嫌いなやつを一種類。会社に明るめの茶髪の社員がいたので、茶髪でよいのかと先輩社員に聞いてみた。ある上司の答えは「仕事ができるならいいよ」というものたったが、別な若い社員の答えは「周りがあいつ茶髪にしそうだなって思う奴だったら」というものだった。何じゃそりゃ。こんな考えには絶対にならない。周囲の反応を意識するのはいいけど、それを意識して服装(や身の回りに関すること)を変えたくないぞ。

というか茶髪しそうな人が茶髪にして意味があるのか

意味があるのか???