無意味のような生き方

組込みエンジニアが怒りと無念をさえずるブログ。

思考の早漏

話が続かない。他人とスムーズに会話できない。第一声はまだ良いとしても、その後がまるでダメだ。理由は主に2つある。

 

1つは、最近になってようやく人の目を見て話せるようになったことだ。この度、自信ではなく自暴自棄の精神から、一定時間他人と目を合わせられるようになった。しかし、まだ見れるようになってから日が浅いため、目を合わせるのにいっぱいいっぱいで、何かを考える余裕がない。完全に思考がストップし、話すことが何も思い浮かばないため、会話を続けることができない。

 

もう1つの理由は、話す前に考えすぎてしまうことだ。人の話を聞いている時、いつも結論に到達するはるか手前で、「これはどうなのか?」「何を言っているのか?」と尋ねたくなる。そして、もしここで質問せずスルーしてしまうと、残った質問が脳の全部を占領してしまうので、その後の内容が全く入ってこない。結果的に、こちらから話すことが何も浮かばず、ひたすら黙りこくってしまう。今はこうなる事がわかっているため、早めの質問を行う事が多い。

 

会話力を上げる本では、相手の話によく耳を傾け、相手の言いたいことを引き出すのが最良とされている。この基準に照らせば、僕の会話力はゼロだ。相手が言い終わらない内に質問するのは、会話の規約違反である。質問する時、私たちは先へ進めない。その場で立ち止まり、通ってきた道を戻ろうとしている。これは良いことではない。大事なのは先に進むことであって、質問は先に導くものであければならない(ビジネス書によれば。)

 

早過ぎる質問をしてしまうのは、考えるのが早過ぎるからである。速いでなく、早い。この、考えるのが余りに早過ぎる現象を、「思考の早漏」とよびたい。

 

ちなみに僕より圧倒的にに早漏の人間を見つけた。『ウィトゲンシュタイン読本』のある章の著者である。抜粋する。

 

始めることは難しい。――もちろん、われわれはすでに始まってしまっているのであって、新たに事を始めることなどできないのだという見地もありうる。そのような見地からすれば、何かを始めようと企てることは欺瞞であり茶番だろう。それは、すでに遠く港を離れた航海の途上で改めて空虚な進水式を執り行なおうとするようなものであるから。そのような見地を受け入れて、始めることの不可能性と欺瞞性を認めたとしても、しかし、依然として始めることが困難な時代として立ち現れてくるのはなぜであろうか。それは、われわれが原理的に不可能なことを試みていることに起因するのであろうか。

さて、ウィトゲンシュタインもまた始めなければならなかった。 

 

何も考えずに読み流してしまいそうになるが、文章の構成を考えたら、これはとんでもない文章だ。「始めることは難しい。」の一文を書いた後で、なんと「始めること」について書きはじめている。つまり、たった一文書いただけで、すぐに内省しているのだ。すごいよ。

 

 

ウィトゲンシュタイン読本 〈新装版〉

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