無意味のような生き方

組込みエンジニアが怒りと無念をさえずるブログ。

僕が通っていた大学の教授

 

※大学院に通っていた頃(約1年前)に書いたものです。

 

僕が通っている大学の教授(40代、男、ドイツ観念論が専門)が、今度結婚するらしい。僕は前期に授業を1つ取っていたくらいで、その教授と特に親しいわけではなかったため、これといって感慨はない。だが、出合いの話などを人づてに聞く機会があり、その中で色々と思うことがあったので書きしるす。聞いた話によると、相手の女性とは”行きつけのバー”で出会ったという。女性が一人で飲んでいるのを見て、声をかけたのが最初のきっかけだそうだ。その教授曰く、「豪快な飲みっぷりがよかった」とのこと。そこからどう親しくなったのかは知らないが、まあ付き合って、そしてこの度めでたく結婚するということだ。

 

 

僕には現実味がなさすぎてFuckとも思えない。バーで声をかけるという行為を、僕は一生できないと思う。なぜなら、一人でバーに来る & 豪快に飲む女性って、自分の芯がかなりしっかりしている人だと思うから。今の僕が話しかけたら、まず劣等感で憤死する可能性が高い。いや、今じゃなくても、今後、仮に年収が数千万あったとしても、無理なんじゃないか。さらに言えば、いつか人よりも比較的高い収入を手にしたとして、それによって身についた自信で高圧的に話しかけたとしても、あまり好かれないように思われる。だが高圧的な態度が嫌われるとしたら、対等であればいいんだろうか?でも対等な収入っていくら位なんだろう。それがピッタリ吊り合っていない限り、傲慢or卑屈のジレンマに陥ってしまう。

 

 

だが!もしかすると、人と比較して上下(うえした)ではなく、自分の内から作られた自信を持った人と対等な付き合いがしたいのかもしれない。この内からの自信というものを身につけるためには、まず自分を確立していなきゃいけないのだが、これが非常に難しい。そしてさらに難しいのが、そのようにして確立された我(われ)が、「バーで人に話しかけるような人間である」という条件をクリアしていることだ。自分を確立している上で堂々と話しかけるのだから、その行動がある程度その人のポリシーと合致している必要があるのだ。

 

 

つまり、満たさねばならない条件は、不動の我の確立し、その我が見知らぬ人に話しかけるような人間であることだ。ちなみに僕はいずれも今のところ厳しい。「自信がないことに自信がある」という現状を抜けださないかぎり、内から湧き上がる自信は身につかなそうだ。

 

 

あと他にも僕が話しかけれない理由は山程あるが、中でも(人見知りを除いて)決定的なのは「たぶん話が合わないだろう」ということだ。僕が普段話すことは、いかに自分が苦しいかという話か、自意識過剰な話、あと哲学の話、くらいしかない。だが、バーに来る女性は、その時点で自意識がバカになっているようにみえる。「~な人ってどう思います?」から導入された話は、まったくハマらないと言い切っていい。僕の話がつまらんというのを脇に置くとしても、些細な会話すら価値観が合わない可能性が非常に高い。もちろん、話が合わなくてもOKだという人もいるだろうが、僕は盛り上がらない状況に耐える心臓は持ち合わせていない。アーイ。

 

 

※後記:教授の話はどこに行ったのか。