無意味のような生き方

組込みエンジニアが怒りと無念をさえずるブログ。

『ホモ・デウス』が死ぬほど面白い

『ホモ・デウス』が死ぬほど面白かったのでまとめる。

前作『サピエンス全史』がサピエンスの過去がテーマだったのに対して、本作はサピエンスの未来について書かれている。前作は上巻が面白さのMAXだったが、今作は下巻が圧倒的に面白い。サピエンスがこれからどうなっていくかを考察する上で、過去からさかのぼり、現在→未来へと話をつなげるのだが、このスライドが上手すぎて、そうだとしか考えられなくなる。あと、実はパンチラインが豊富で「農業革命によって、アニミズムの壮大なオペラを人間と神の対話劇に変えた。科学革命によって、世界は今や人間のワンマン・ショーになった」とか「あなたが本が読んでいる間に本があなたを読むようになる」みたいな言い回しが随所に挟まれていて気持ちいい。

 

本書では《意味を与える主体》の変遷を元に歴史が語られる。森羅万象の出来事に意味(や目的や価値)を与える主体が、歴史の中で神から人間へ、そして人間からデータへと変わっていくことが説明される。

 

  • 神の時代

まず、飢餓や疫病に立ち向かうすべをもたなかった時代(~1700年頃)、多くの災いは神によってもたらされたと考えられていた。何かひどいことが起こると、人々はその出来事を神が作り出した壮大なドラマの中に位置づけ、以下のように自分を納得させた。「私たちはみな、神が作ったドラマの登場人物にすぎない。私が今苦しんでいるのも、そういう脚本を作られたのだからしょうがない。しかし、神は善なので、最終的には最善の結果が得られるに違いない。少なくともあの世では。」人々は、災いに対して無力であったが、神によって意味を与えられていたため、心理的に守られていた。その代わりに、好き勝手なことをすることはできなかった。自分勝手に生きることは、神の教えには書かれていなかった。

 

だが今日、神の教えを考えない。もし私たちに恐ろしいことが起こったとしても、このことに何の意味があるんだろうとは考えない。ただ原因だけがあると信じている。ひどいこと(疫病など)が起こったなら、「ひどいことが起こったなあ」と思うだけだ。その代わり、疫病の原因を突き止めて対処することに全力を尽くす。

 

  • 人間の時代*1

現代の取り決めは前代未聞の力を与えることを私たちに約束し、その約束は守られた。さて、それではその代償はどうなのか?現代の取り決めは、力と引き換えに、意味を捨てることを私たちに求める。人間たちはこの背筋の凍るような要求に、どう対処したのか?それに従えば、倫理学も美学も思いやりもない、暗い世界がいともたやすく生じえただろう。ところが実際には、人類は今日、かつてないほど協力的であるばかりでなく、以前よりもはるかに平和で協力的だ。人間はどのようにそれをやってのけたのか?神も天国も地獄もない世界で、道徳性と美、さらには思いやりさえもがどうやて生き延びて、盛んになったのか?(下巻,p.31)

 

もはや私の苦しみは神のせいではない。だからこそ、私たちは災害や飢餓に意味を見出さず、克服できるものとして扱うことができる。しかし、同様に、私たちどう行動するべきかも、美しさの基準も、他人を助ける理由も、神は与えてくれない。神がいなくなったことで、すべてが無意味になってしまい、何を考えて何をするべきか、私たちが混乱しないのは何故なのか。本書によれば、神に頼る宗教が衰退したタイミングで、「人間至上主義」という別の宗教が世界を席巻したおかげだ。

 

人間至上主義が征服している。人間至上主義は、神の代わりに、人間性を崇拝する。人間至上主義によれば、人間は内なる経験から、自分の人生の意味だけではなく森羅万象の意味も引き出さなくてはならないという。意味のない世界に意味を生み出せーこれこそ人間至上主義が私達に与えた最も重要な戒律なのだ。(下巻,p.34)

 

人間至上主義により、私たちは、何が美しくて、何が善で、何をするべきか、自分で決める力を得た。神によって意味を与えなくても、ただ自分の心に問うことで、答えを知ることができるようになった。「お前はこれを本当にやりたいのか?もしそうなら、お前はそれをするべきだ。」「私は苦しい。それは悪いことだ。よって、戦争は悪い。」

 

しかし、みんなが好きなように生きているのに、現代で秩序が崩壊していないのは何故なのか?本書によれば、これも人間至上主義のおかげだという。好きなことをしたいのと同様に、嫌なことをされたくないという思いも全員がもっているからだ。自分にとって嫌なことは、社会的にも悪いことである。社会のルールを決める上で、「私が嫌だから」というのは全うな理由として受け入れられる*2。人間至上主義により、秩序はむしろ強化された。かつて、何かが悪い理由は、聖書から探してこなければならなかった。逆に言えば、私たちが考慮するのは、神が定めている範囲だけでよかった。しかし現在、「自分が嫌だから」ということだけで、悪い理由を個人が与えることができるようになり、膨大な範囲に対して気を遣わなければならないようになった。

 

  • データの時代

この本がヤバいのはここからだ。このような人間至上主義の根底にあるのは、「自分のことは自分が一番よく知っている」という考え方である。周りがなんと言おうと、自分が「傷ついた」と言えば傷ついている。だからこそ、あなたは自信をもって他人を加害者に仕立て上げることができる。好きなことについても同様だ。自分が何が好きで何をしたいかについて、一番決める権利があるのは自分自身だ。(好きなことをする権利でなく、決める権利)もし、自分の欲求や情動がわからなかったら、自分の心の声を聞いてみればいい。自分の心の声を聞く唯一の方法は、静かな場所で一人座禅を組みながら考えることだ。

 

このように、個人の意味を与える能力は「自分のことは自分が一番よく知っている」に基づいている。しかし、この考えが今、生命科学によって揺らいできているという。現在の生物学において有力な主張は以下の3つである。

 

1.生き物はアルゴリズムの集合であり、単一の自己はない
2.人間を構成しているアルゴリズムは自由ではない。それらは遺伝子と環境圧によって形作られ、決定論的・あるいはランダムに決定を下す。
3.アルゴリズムは私が自分を知るよりもはるかに私を知りうる。外部のアルゴリズムは、私の体と脳を構成するシステムの1つ1つをモニターしていけば、私がどう感じているか、何を望んでいるかを正確に知りうる。

 

1と2は、生き物も同じようなアルゴリズムで動く機械にすぎないという主張だ。1と2が正しいならば、3が言っている、自分自身について一番知っているのはアルゴリズムだ、という主張も全く不思議ではない。現に、医学に関しては、既に多くの人間がこの原理に従っている。スマートウォッチで心拍や眠りの質、一日に歩いた歩数などをモニターし、健康状態や予測寿命に関して私のことを私に教えてくれている。

 

個人の一挙手一投足がデータとして蓄えられ、アルゴリズムによって分析されると何が起こるか。本書によると、アルゴリズムは、一旦巫女として信頼されれば、すぐさま代理人に、さらには君主に進化する。巫女の時点では、信頼できる情報提供者にすぎない。例えば、外で昼ごはんを食べたい場合、自分が今いる位置と食べたいものの情報を教えれば、巫女は候補となるレストランを教えてくれる。これが代理人の段階になると、私達は最終目的だけを告げればよい。「昼ごはんが食べたい」という情報だけを伝えれば、代理人が候補の中から最適なお店を予約してくれるだろう。そして、アルゴリズムが君主になったならば、私たちの欲望を形作り、私たちに代わって決定を下しはじめる。私の健康状態と感情について私より詳しくなったアルゴリズムは、私にとって最適なお店を予約することはもちろん、その時間に昼食をとりたいという欲望をもつように、私を操作しはじめるだろう。

 

人間至上主義を崩壊させるのは、コンピュータ科学と生物学だ。本書によれば、責任は生物学者の方にある。生き物がアルゴリズムと異なる機能の仕方をするのなら、コンピュータは人間を理解して、行動を導くことはできない。本書のラストでは、人間はアルゴリズムなのかという問題が提起されており、この問いは保留のままで終わっている。しかし、生き物がアルゴリズムであると結論した瞬間、生物と非生物の壁は取り除かれ、人間の特権は失われ、人間至上主義は崩壊する。

 

では、私達(の子孫)を導いてくれるのは、どんな宗教またはイデオロギーなのだろうか?本書によれば、「データ教」と呼ばれるものだ*3。データ教の教義は、データこそが意味を与えてくれるという主張だ。ここでデータとして想定されているのは、情報よりも原始的なものである。人間はデータを洗練して情報にし、情報を洗練して知識に変え、知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた。ところがデータ至上主義者は次のように見ている。もはや人間は膨大なデータに対処できず、知識どころか情報にすら変えることができない。人間が知識を獲得することはもはや諦めて、データ処理はすべてコンピュータに任せるべきだ。あなたに必要なのは、自分宛てのメールにもっと早く返信することだ。そして、データ処理システムがそれを読むのを許すことだ。

 

データ教は次のように言う。あなたの言動の一切は大量のデータフローの一部で、アルゴリズムが絶えずあなたを見守り、あなたのすること、感じることすべてに関心を持っている。熱狂的な信者にしてみれば、データフローと切り離されたら、人生の意味を失う。何かをしたり味わったりしても、誰もそれを知らないとしたら(=アルゴリズムの一部にならなかったら)、何の意味があるだろう。人間至上主義者は、自分の中に意味見つけることで、親鸞万象の意味を与えなければならなかった。しかし、データ至上主義者によれば、私たちはもはや自分の中に意味を見い出せない。その代わり、自らの経験をデータフローの中に投入すれば、アルゴリズムが意味を見出して、あなたの価値を教えてくれる。将来、あなたが自分について知りたいのなら、DNA配列の検索を受け、血圧と心拍数を24時間測定できるウェアラブル装置を身につけ、ありとあらゆる情報を記録してネット上に提示すればよい。そして、グーグルとフェイスブックがその情報を読むのを許可すればよい。そうすれば、偉大なアルゴリズムが、誰と結婚するべきか、どんなキャリアを積むべきか、世の中で何が流行っているか、これから戦争を始めるべきか、何でも教えてくれるだろう。森羅万象に意味を与えるのは、アルゴリズムなのだ。

 

 

「やばかった」としか言えないけど、少しだけ感想を書いておく。僕は今まで人工知能とかIoTに関心がなかったが、この本を読んで今更ながら興味を持ち始めた(たぶん技術者の中で最後)。これまで人工知能の話題といえば、「人工知能に奪われない仕事は?」とか「自動運転者の事故は誰の責任なのか?」みたいなのだが、正直この本の前ではケシ粒ように小さな話題だ。自動運転の問題は今のところ解決策がないように思えるけど、時期が経てばきっとアルゴリズムに従いはじめるよなあ思う。1回1回のミクロな視点では飛行機が墜落する可能性があっても私たちが飛行機に乗るように、自動運転者が1回や2回後から考えて損する結果を起こしたとしても、自動運転の判断を信頼するようになるだろう。というかそもそも、データ至上主義が支配した世の中では「命の価値」はどうなるんだろう。人間が価値を与えることは簡単だが、データが与えるとなると難しそうだ。人間は、もし死んだら死亡データがカウントアップされるだけだが、生きていれば多種多様なデータを提供してくれる。死人と生者では後者の方がデータ提供者として魅力的なので、人間が生きることには価値があります、みたいになるのだろうか。

  

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

声の網 (角川文庫)

声の網 (角川文庫)

 

 最強の副読本としておすすめ。

*1:a.k.a.ボクらの時代

*2:少数の嫌なことは多数の好きなことであるかもしれない。例えば、金持ちが税金を収めるとか、富を分配するとかは、金持ちにとっては嫌なことだが、庶民にとっては好きなことだ。このような好む人もいれば嫌う人もいる事柄は、権力の移行によってルールが変わっていったが、ほとんどの人が嫌う殺人などは悪いこととして強固なルールになっている。

*3:本書ではこの部分は、「テクノ至上主義」もしくは「データ教」という書き方がされている。「テクノ至上主義」は、一部のアップグレードされた人間だけが意味を与えるようになるという主張だ。アップグレードされた人間は「ホモ・デウス」と呼ばれ、この本のタイトルになっている。上巻は明らかにこのアップグレードされた人類をテーマに書かれており、読んだ人の全員が「あ、改造人間がテーマなのね」と思っただろう。しかし、下巻になると、「テクノ至上主義」もしくは「データ至上主義」と、並列で語られるようになり、最終的には、「より興味深いのはホモ・デウスじゃないほう!」と言われる始末。結構序盤でホモデウス関係なくなっちゃった。(byハライチ)